清楚は無疵をいうんじゃない

なによりもまず詩人でありたい、だれよりも無名として書きたい。

吉行淳之介と愛、セックス

 吉行淳之介を意外と(誰に対しての?)読む。
 単純に小説としておもしろく、(疾患や投薬が原因で)文章を読めるほど頭が働かない時期でもひいひい言いながらなんとか読める、平易であっさりとした文章だから。
 ぼくはいうのも恥ずかしいが「男性性と女性性」に関心があるから、「男と女」「性」を主題にした吉行の文学は興味がつよいので読書がすすむ。それもあるだろう。

 吉行淳之介ミソジニー作家であるらしく、ミソジニー・プレイボーイの代表格として語られる。いわゆる一部の界隈では、女性を軽蔑しているから女遊びができるという人種とみなされている。
 ぼくはお互いあっさりと遊んでどちらも傷つけないのならそういうセックスをまったくもって否定しない、ただ、女性を軽蔑していた(エッセイでは如実である)かれに「女」が書けたとは思えないときがあることをここで書いておきたい。
 かれのえがく女は、いつも「男にとっての女」である。男に視られている女である。男の認識のなかの女である。かれにとり女は成熟してはならず(できず)、むろんセクシーでなければいけない。
 女性が男性にちやほやされたいのなら抜群の教科書かもしれないが、しかし、女性性追求のための文学とはいえないだろう。もっとも、これは文学としての価値を落すものではないのは了解の上だ。
 吉行の女性の書き方はあくまで男性のためのそれであり、ややマンディアルグなんかの都合よく利用される中身のないヒロインに近い書き方をしているように想うことすわある。

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 いうまでもないが、女性とは人間であり、人間とは動物であり、動物とは体液のうごめく、いつどう転ぶかもわからない、不可解な、熱い化学物質である。ぱっくりと腹を割ればグロテスクで、「あなたのためにあなた以外には心は開いていないわ」と本心から客にいう娼婦のような綺麗な感情は、きわめて出にくい。
 かれは女性が好きで好きでしょうがなく、容姿や話術、人柄や職業や才能、そして色気に恵まれていたのもあってモテたが、エッセイから察するに作家じしんが女性を大切に想っていないし、ということは愛していないし、愛していないものを理解するというのはある種容易で、しかしある種不可能でもある。
 共感もできず愛していないものを理解するというのは理念的にとらえ分析し、決定するという知的活動ではないだろうか。ぼくはこんな知的活動をひとりの人間(いうまでもなく小説書きにとって、登場人物とはひとりの人間であり、書かれていない過去や心中までも拡がりを想像して書くのがつとめであり、読者にもそれを感じさせるのが小説である)に適用するのが、ぼくの小説観に反する。であるから、この書き方を肯定こそすれ、ぼくだけはやらないように全力で気を付けなければいけないと戒めている。

 けれどもうす暗く後ろめたい男女関係をえがくという点において、こんなにも優れた作家もめずらしい。ぼくはかれの小説がキライである。しかし、読む。こうさせる小説は、才能は、創作者としてのつよみである。

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 ところでぼくは、愛と肉欲ならばむろん愛を上位に置く人間だ。