清楚は無疵をいうんじゃない

なによりもまず詩人でありたい、だれよりも無名として書きたい。

推し美術館にふたたび訪れました

 福岡市美術館というところは、大濠公園という、湖のあるおおきな公園のなかにあります。

 ぼくは中原中也の詩によって、湖へのつよい愛着をもってしまいましたが、中也の詩編にえがかれているような仄かな暗みのある自然の風景とちがい、洗練された公園から眺める湖の周囲は都会的です。それもまたよし。(携帯電話がないので写真がない)

 福岡市美術館の入り口付近には、ぼくの好きなネモフィラが咲いていました。季節ですもんね。ぼくは春生れなので春がキライなのですが、ネモフィラの咲く5月に生れたことはいくぶんぼくに誕生日への愛着を与えています。
 ネモフィラはとても綺麗でした。夕暮にあんなにも沈鬱にみえる神秘の青は、朝陽の下ではきよらかな爽やかさをもってふわりと控えめに美を薫らせるようです。ネモフィラの美しさは香水でたとえるとオー・デ・コロン。
 あまりつよくなく、曳くように薫ればすっと糸を引くように掻き消えるような果敢なさがあるよう。しかしその後歩きはじめてふとしたときに、心象でかの風景が掲示されるような、また見に行ってしまうような美しさです。そうじゃありませんか?(わああああ写真撮りたかったよー!!!)

 大濠公園では湖を眺めながら、喫煙所でぼーっと喫煙、かわいい鳥たちににっこり。そして散歩中のわんちゃんを観察。動物だいすき~。
 とくに、哺乳類はほんとうに愛らしいですね。ここメモしてくださいね、哺乳類でいちばん愚かなのは、人間です(そして坂口安吾のいうとおり、切なくて美しいのも、人間にとってはやっぱり人間なんだよ)。

 推し美術館では、恒例の常設展示のみ鑑賞。
 特別展示には見向きもしませんでした。でもかっこいい都会的なイラストのポスターでしたね。
 今回は、前回ご紹介した川口規外の絵画ではなく、カプーアの「虚ろなる母」をご紹介いたします。

www.fukuoka-art-museum.jp
 虚無と母の結びつきは、ぼくの詩の主題と親和性がありそうです。絶対的な母は虚しく、吸われるように美しい沈鬱な青をしている。
 しかしぼくにとり虚無の母というものは生命を撥ねかえします。それは無機的であり、爬虫類の眸のような硬質な石です。それは天空です。天空とは硝子盤であり、硝子盤とは天空であり、これは両極端な世界であり、そしてぼくにとり双頭の神なのです。

slib.net


 帰りに、ずっと迷っていた美しいブルーの砂時計を買いました。福岡市美術館限定のデザインです。砂時計なんて必要ないので無駄遣いかと思い迷っていましたが、いつか売り切れるものだろうから...。ブログで買い物の話をすると、大好きな奥歯さんを意識しちゃいますね。

危険な愛読書に、よく似合う色彩です。

 

 話変わりますが、髪切っちゃいました。衝動的でした。
 70sのふわふわミディアム is dead...
 いまはいまで気に入っています。前から見たら銀行員みたいな真面目なセンター分けで、横から見たらがっつりブロック入れていて、ギャップが好き。3ミリの刈り上げを守るためにバリカンを買い、週1で刈り上げています。

自撮り。携帯は母からもらった契約の切れたもので、充電器差しっぱなしじゃないとすぐ落ちる。


 ふわふわミディアムより、グランジやストリートのファッションには合いますね。でもたぶんもとに戻します。
 ちなみにぼくは自分の眼がけっこう好きなので(自己愛つよいですがなにか???)、眼だけは隠しません。BTSのテテが好きで、似たメイクをしています(一重瞼で大きめの眼なのは共通点)。

 あ!あと、勢いで美術館でガチャガチャしちゃったんですよ!何年ぶりかな、ガチャガチャ。
 パブロ・ピカソの絵画の缶バッチのガチャガチャで、落書きっぽいのだと服につけられていいかな~と思いやってみると、素敵な缶バッチがころり♪(全部素敵だったんですけどね)。

お気に入りのネルシャツにつけて、グランジ&パンク&ピカソ


 優しい顔をしています。
 理論を突き抜けた、天衣無縫。
 合理によって合理を砕いた不合理は、素朴素直な優しい顔をしているとぼくは信じています。人間の素朴なこころは優しい歌をうたうのだと、そう信じています。
 "primitive"とは、天衣無縫とかさなる織物です。ぼくは、其処まで、還りたい。

 幼少期に、ふしぎな優しい物語を読んだ時の、かのとくべつな感情をお憶えでしょうか。あたかもひとの善にもたれかかるように優しい心を信じる甘えと、神秘への尊敬が、番うような心のうごき。かのような感情は、やはり、喪失してしまいます。
 パブロ・ピカソは急進的な芸術家でもありますが、その領域に魂を置きつづけ、時代と現実の波に抵抗するように、佇んでもいたんだとおもいます。三島由紀夫金閣寺にある、金閣寺の頂点の鷲の彫刻のように。
 それは、もしや、無垢への意志です。

吉行淳之介と愛、セックス

 吉行淳之介を意外と(誰に対しての?)読む。
 単純に小説としておもしろく、(疾患や投薬が原因で)文章を読めるほど頭が働かない時期でもひいひい言いながらなんとか読める、平易であっさりとした文章だから。
 ぼくはいうのも恥ずかしいが「男性性と女性性」に関心があるから、「男と女」「性」を主題にした吉行の文学は興味がつよいので読書がすすむ。それもあるだろう。

 吉行淳之介ミソジニー作家であるらしく、ミソジニー・プレイボーイの代表格として語られる。いわゆる一部の界隈では、女性を軽蔑しているから女遊びができるという人種とみなされている。
 ぼくはお互いあっさりと遊んでどちらも傷つけないのならそういうセックスをまったくもって否定しない、ただ、女性を軽蔑していた(エッセイでは如実である)かれに「女」が書けたとは思えないときがあることをここで書いておきたい。
 かれのえがく女は、いつも「男にとっての女」である。男に視られている女である。男の認識のなかの女である。かれにとり女は成熟してはならず(できず)、むろんセクシーでなければいけない。
 女性が男性にちやほやされたいのなら抜群の教科書かもしれないが、しかし、女性性追求のための文学とはいえないだろう。もっとも、これは文学としての価値を落すものではないのは了解の上だ。
 吉行の女性の書き方はあくまで男性のためのそれであり、ややマンディアルグなんかの都合よく利用される中身のないヒロインに近い書き方をしているように想うことすわある。

  *

 いうまでもないが、女性とは人間であり、人間とは動物であり、動物とは体液のうごめく、いつどう転ぶかもわからない、不可解な、熱い化学物質である。ぱっくりと腹を割ればグロテスクで、「あなたのためにあなた以外には心は開いていないわ」と本心から客にいう娼婦のような綺麗な感情は、きわめて出にくい。
 かれは女性が好きで好きでしょうがなく、容姿や話術、人柄や職業や才能、そして色気に恵まれていたのもあってモテたが、エッセイから察するに作家じしんが女性を大切に想っていないし、ということは愛していないし、愛していないものを理解するというのはある種容易で、しかしある種不可能でもある。
 共感もできず愛していないものを理解するというのは理念的にとらえ分析し、決定するという知的活動ではないだろうか。ぼくはこんな知的活動をひとりの人間(いうまでもなく小説書きにとって、登場人物とはひとりの人間であり、書かれていない過去や心中までも拡がりを想像して書くのがつとめであり、読者にもそれを感じさせるのが小説である)に適用するのが、ぼくの小説観に反する。であるから、この書き方を肯定こそすれ、ぼくだけはやらないように全力で気を付けなければいけないと戒めている。

 けれどもうす暗く後ろめたい男女関係をえがくという点において、こんなにも優れた作家もめずらしい。ぼくはかれの小説がキライである。しかし、読む。こうさせる小説は、才能は、創作者としてのつよみである。

  *

 ところでぼくは、愛と肉欲ならばむろん愛を上位に置く人間だ。

ぼくの十三年間の詩生活はバッハの一呼吸にくずおれる

 絶対的に到達しえない領域の音楽が、一呼吸でためいきされる。ぼくはなにを書いていたんだろう。一呼吸で歌いえる光をえがきたくて、虚栄と自意識の肉べったりと張った歪な歌をうたっている。


 自分のプレイリスト。
 

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 わたしを赦さないで、
 わたしのことを是認しないで──絶対に。

美術館中毒

 最近は美術館ばかり行っています。
 週に三回とか行っていて、三日空くと「行きたい行きたい!」となり殆ど中毒状態です。
 というと「すごく美術マニアで、じっくり鑑賞しているんだろうな」と思われるかもしれませんが、そうでもありません。観覧の時間は30分くらいで、好きな絵の前に10分程度、あとは数秒で見終わってすいすい歩きます。美術への追究心もあまりなく、美術評論を読むほうがたのしい生粋の言葉愛好家だと自分で思っています。
 好きな絵を好きな時に見たいな~って感じ。

 推し美術館は福岡市美術館
 ぼくは福岡県在住で、遠出がめんどうだし方向音痴レベル宇宙級なので、近くにしか基本行きません。旅行の時についでにくらい。
 福岡市美術館は「樹間と鳥」という深紅の絵画がとても好き。この風景へ還りたいとつよく想います。神秘的な童話を子供の時に読んだ際の独特な陶酔をこの絵画はぼくにくれるのです。

 福岡市美術館のサイトに載っています。画家の名前は「川口規外」。

https://www.fukuoka-art-museum.jp/archives/modern_arts/22?title=&name=%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%80%80%E8%BB%8C%E5%A4%96&year=&kokumei=%E6%97%A5%E6%9C%AC&genre=&collection=


 最近そういえば赤がすごくすごく好きです。
 赤津亮になります(嘘)。
 昨日は福岡アジア博物館に行ったのですが(二日連続で行った)、帰りに千円で安かったのでレンガ色のかわいいジャージを買いました。
 最近1000~2000円くらいでスポーツウェアめっちゃ買ってます。

 

韓国のラーメンをもったぼく


 

 好きな画家はフランシス・べイコンで、このひとにはそこそこ興味があり、評伝とインタビューを大金払って買いました。5000円ずつくらい、両方で一万円...。勝った直後にちくま文庫で1000円くらいで出たときはショックでした。
 あとはモロー、ムンクエゴン・シーレクリムト、ルドン、平野遼、鴨井玲、あとなんかいっぱいいますけど、名前を忘れやすいです。

 坂本健の絵画を所有しています。
 「ボーラーハットをかぶった黒マントの詩人が月の下にいる絵」というのを注文して、届いた絵画はびっくりするくらい好み。SNSで宣伝しはじめた初期に一目惚れして、めっちゃリツイートしまくってたのを理由に、安くしてくれました。
 見たい方いるかな? ぼくは携帯をもっていないので、写真を撮るときに借りなきゃいけないからぱっと撮れないのだ...。

 でも、芸術っているのはぼくの美術に対する距離感くらいがきがるでとっても楽しいのかもしれません。
 最近博物館で学芸員をやっている友人と、「有名な画家じゃなくても、そのひとにとって刺さる絵画を一生懸命働いたお金で買って、画家が有名になって自慢の種になるとか価格が上がるかとか気にせずに一生大切にしていけたら、それはすごく素敵な芸術への愛だよね」という話で盛り上がりました。
 ぼくの詩や小説も、だれかにとってのそんな存在になりたいな。

男の子になりたかった女の子になりたかった女の子になりたい青津亮

 ※性被害についての記述があるのでお気を付けください。

男の子になりたかった女の子になりたかった女の子」という松田青子の著作のタイトルにインスパイヤされた川野芽生のエッセイを読んでいるのだけれども、それを読んでいる間ぼくの脳裏で、「青津亮とは男の子に憧れる女の子になりたかった女の子になりたいおじさんではないだろうか」というおそろしい不穏な影がよぎっていた。

 ぼくは概念的な意味での(架空の「少女性」という意味での)「少女」であろうとする若い女性になりきってよく一人称小説を書いている。この概念的な意味での「少女」については後述の抜粋で説明する。
 ぼくはなによりも先ず詩人でありたいので(小説しか書かなくなっても、先ず詩人としてあって詩人として生き抜くことができたらそれでいいという意味もある)、詩のほうが創作意欲はつよいのだが、小説を書きたいと思い立った時、半分以上は年齢的にも少女か、或いは大人になりきれず少女として社会人になってしまった女性を主人公とする小説を書いている。

 その少女たちを果してリアルな少女として描けているかどうか、女性でもないし少女を経験したこともないぼくには確認がとれない。
「ほんとうに青津さんって男性?」と訊かれるとめちゃくちゃうれしい。共感してもらえたらすごくうれしいし、最近は共感という人間の機能に懐疑的なムードだけれども、ぼくはすべてのひとに睡る普遍の人-性へ言葉のうでをのばしてくみとりたいので、他人同士だし性別も年齢もちがうのに「わたしみたいだった」といわれるとただただうれしい。

 それにしても、「少女性」というものは現実と対峙したときに蒼褪めて病んでいく宿命にあるようにぼくには想えてならない。「少女性」はけだしfictionであり、人工の産物であり、あたかも届かぬ月である。少女的に生きるとは月影としてのわが身を守護するという淋しいものであるけれど、その月は無いのだ。

 ぼくの考える少女の概念とは以下のようなものだ。


 そう。「概念」の意味における少女、わたしいわく「概念少女」とは、劇しく炎ゆる激情と蒼ざめた憂鬱を抱えこみ、その混濁の挙句、何らかのものを紫の曳く閃光と貫き破壊せんとする危険な存在。して、パブロ・ピカソがそういったように、産まれもっての芸術家である筈だ。裏切らない。わたしの本能からをも堕ちた領域にある本性のわたし、魂の睡る領域、いわく、「わたし」をけっして裏切らない。その貞節をさえ守護すれば、わたしたちはみな芸術家であり、その決意とうごきとを殺さないかぎり、少女は「少女」として、勁くつよくなりえるのである。果てに素直な心情に従って、澄む光のいきれを毀せるようになるならば、はや、詩人的といってもいいかもしれない。
 ところで、「少女」なる言葉を解体し、幻想・理想をモデルに縫い合わせ再構築して、さればそれ、虚数として追究してみよう。何故虚数といえるというに、それ実在しない概念であるが確かに宿ると信じられるにあたいすると判断されることにくわえて、聖性という、赫う城へ到達するという不可能への推論を投げるために目的のための道具として必要とする、天上に浮ぶ金属質の豊穣かな砂漠ともいうべく概念であるから。そして、虚数は実在しない。しかし、在る。不在として、たしかに、在る。
 扨て、「少女」とはその前提として、高貴性というものを必要とする。異論に関心はない。しかしその高貴性というのは身分や社会的価値等外部から与えられたそれでなく、ただ産れもったそれを守り抜こうと、心身ともにズタズタになっている状態をいう。純粋さを守護し、汚れつづけるそれを瑕に磨いていく狂おしい勇敢なうごきをしつづけられている、これが、概念的な意味での「少女」の条件である。「少女」の魂から高貴が香気と昇るのは、もしそのひとが「少女」であるならば、屹度それ本能的に識っているであろう。湧きあがる無辜の激情は、他者の善を信じ抜きたいという甘ったれたそれであり、ごくごく自然に、愛という不可解きわまる狂気的な言説に美しい夢をもつ。恋愛と愛を亮(はっきり)と区別することを全身全霊で拒み、愛を実現し立証する恋愛の他いっさいの恋愛をそれと認めず、その余りを軽蔑、そして唾棄さえする──ここに、「少女」特有の冷酷・残酷がみいだしえる。「ほんとうに大切なことは目にみえない」、当然きわまるものとして、「少女」の魂はそれをすっと心の根から理解する。Primitive──わたしたちは、そうでありたいのです。其処まで底まで根まで墜落、「我」を匿名と久遠の林立する「わたし」へと、一途に堕として往きたいのです。紗の音を立て、砂と抛り、希みをいだき、真直ぐに墜落して往く所存である。
 このうごき、このうごきに血とともにかよう光と音楽の共同舞踏、それ果たして、高貴でなくてなんであろうか? 有機に宿りえる高貴とは、優しさに出発した勇気のうごき、そこより薫る鮮血と純化された体液の深紅な香気をいうのである。少女とは、わが魂を天上のうつしみとして翳とわが胸に抱き、けがれることを怖れ、そうして、既にしてけがれた部分をどこまでも嫌悪する。剥ぎ落そう、剥ぎ落そうと四苦八苦する。純粋。優しさ。頸さ。闘い。素直に生きて、優しくて、愛らしい戦士に、たとえば、魔法少女のようなものになってみたいのです。そのためであるならば、何処までも、どこまでも戦い抜くのがわたしたちだ。

 自作から抜粋

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 それは地上においては生存を妨げ傷を負いやすくする影反映するうすらいでしかなく、その肉の下で傷を負う姿は、たといコンテンツ上であってもロリータ・コンプレックスの男性の欲情の餌食として使用される(ぼくの小説がそうでないといいきる自信はぼくにない)。
 無き少女性を守り抜くために現実と争い瑕に魂を磨くという生き方は不毛だ、惨めだ、清らかですらない、たかが人間なのだから。けれども──なぜぼくをこんなにも惹きつけるのだろう。

 恥ずかしげもなくいわせていただこう──ぼくは、少女的でありたい。
 しかしこの「少女」は、ぜったいに秩序によって与えられた「少女とはこうであれ」に与しない。フリルの裾をひるがえし、「わたしは是認しない」という水晶の眸を、みじろぎもしない光としてぼく等に叩きつける。

 考えるということは、ノンということだ。

 男の子に憧れる女の子というのは淋しい。彼女たちは男の子の気質や躰に憧れているのではなく、きっと少女とはこうであれという生き方を生きたくないのだろう。
 そんなことをするくらいなら痛みを感じつづけることを選ぶし、病んだっていい。そういった人間は秩序にとって余計者であるけれども、どこか可憐であり、しかし、哀れみというとろむ憐憫をそそぐことをためらわせる非情な冷たさ、硬さがある。ぼくはこの冷然硬質をむしろ趣味的に愛する。

 ぼくの憧れている二階堂奥歯という編集者の創作に(「八本脚の蝶」より)、「誇り高い王女は国を占領されたために性奴隷として使用されることになりましたが、王国が無いのなら自分を王国にしようと考え、躰を大理石のように硬めました。男たちは王女に侵入することができず、その王国はいつまでも地下にありつづけるのでした」というのがあるのだけれども(要約失礼)、ぼくはこの寓話が好きで好きでたまらず、しかし抱き締めたいという愛着ではなしに、月に憧れるようにこうでありたかったと悲願する。
 ギリシャ神話の推しは、アルテミスです。男に裸をみられて殺す銀色の冷酷さが好き。
 霊肉装飾ふくめて、自分を、王国にする。
 このようにぼくは生きたいのだ。本気で、そう想っている。少女的にして、Dandyでありたい。

 綴ってきたものは男性目線でしかない。そうだろう。
 少女とぼくの相違点というか、ぼくには「自分は性欲をもよおさせる存在である」という感覚がない。危機感をもったことがないため、小説でそういう心情を書くのも気が引ける。単純に肉体的なモテ方をした経験が乏しいし、そういえば性被害を受けたことはあるのだけれども、殆ど被害だと想っていない。心の状態がなにも変わらなかった(或いはすでに変わっていたのか)。
 性被害というのは、激しいものだと小さい時に毛むくじゃらの肥った男に手をひかれ、かるく躰をまさくられ、そのまま連れ去られそうになったことがある。
 母親が気づいて半狂乱で走ってきて男は逃げたが、そのままだとどうなっていたのだろう。あまり感慨はない。トラウマでもない。むしろ「ぼくも可愛かったんだな」と自慢のようにいうときがある。
 小中は大人しかったからか、意味がわかっていないのが理解されていたからか、同級生からやたら躰や下腹部を触られていた。軽いノリだと認識していたのだが、いま想い返すと血走った目が完全に欲情のそれであったが、「変わった眼付をするなあ」と想っていた。その触り方は嫌がっても嫌がっても触りつづける執拗さがあった。そういう同級生が三人くらいいた。
 十九のときに交際したひととはキスをしないまま別れたため、ファーストキスは二十歳の時に知らない女性から急にされたものである。無感覚は痛かったが、けれどもそこまでトラウマになったりはしていない。何度もしてきたので自暴自棄になって、快楽をえるまでやってみようかと実験的精神が働き何度もした。ゴムのようだと想った。
 当然のことだけれども、やはりぼくは女性の気持なんてわかるわけがないのだ。

 男の子に憧れる女の子になりたかった女の子になりたい。
 ぼくの小説には明らかに男性嫌悪がみられる。正直、「愚か」か「加害者」の二択である。ぼくがこのむのは明らかに「愚かな男」という軽蔑すべき側であり、またそれであるからこそぼくにこのまれる。男性性の愚かさ、淋しさを抱きすくめていたい。男性というのは秩序からはみだす凹凸のつよい特性や欲望をもちすぎている、かなしい生き物だと思っている。だからこそ泥臭く生き抜いた社会不適合な中原中也のような男が好きだ。坂口安吾のような男が好きだ。少年のようだ。
 少年性という存在をやはりぼくは愛しているが、ロックスターに憧れる少年の気持と大方かわりはない。
 結局、ぼくは少年のような男が一番好き。

Ms.Machineの音楽の天上的な硬質性は、バッハの宗教音楽に印象が似ている

 伝えたいことはタイトルで終わりです。

 視界がまっしろへ剥がれるような怖ろしさがあります。無機的です。氷のように冷たく、鋼のように硬い。それがまっしろな花となって空へとび、こつぜんと裂け剥がれた風景はきっとこんな音楽でしょう。


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 言葉でいうと、二階堂奥歯と川野芽生に雰囲気が近い気がします。我は受け入れられない、我は是認されない。絶対に。
 ただそこでそがままに美としてあってほしいと祈るほかはない。バッハの宗教音楽はぼく等を赦しなんかしていない。否定の鞭はそら降らす天上のそらなみだのゆびさき。

博多の丸善とブックオフに行きました

 昨日は本屋さんに行きました。

 最近買ったお気に入りの古着のブカブカ黒革ジャンにリーバイスシルバータブのグレーのデニム(ルーズという太いモデル)、リーボックのかわいいスニーカーを履いて「レイブ+グランジ」な感じを気どりました。
 レイブとはヨーロッパのクラブで遊ぶ小僧たちのファッションスタイルです。グランジは古着をリアルに粗雑に着るスタイルです。
 最近90年代のクラブミュージックが好きで、とくにフランスで流行したプレイリストをよく聴いています。
 Kitsuneとかいいよ!(クラブじゃなくてCafeって書いてあるし、これが90sかはわからない)
 




 後このModeratorってひとの音楽が好き。踊るための曲かはわからぬ。

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 ちなみに最も好きなアーティストはバッハとシドバレットです。

 丸善には一時間くらいいて、欲しいものはいっぱいあったけれど、予算がないので厳選してこれ。



 今回「いま読みたい!」と思わせてくれたのは、川野芽生(ごめんなさい、ずっとカワノメイって読んでました、メグミです)の「かわいいピンクの竜になる」になります。

 もう、こういう方ほんとに好き。美しきプライド。誇り高き少女性。冷たい拒絶と硬い軽蔑。あまりにも高い美意識はきよらかな塔へと昇りゆき、完全無欠なガーリー衣装に天上の羽として織り包まれるよう。孤独は、守護するものです。

 「女の子らしい」というのは彼女にとってフィクショナルで御伽噺的なものだったが、身嗜みを女の子らしくすると男性から「性的使用可能である」とみなされ、「モテたくないならなんで可愛くするの?」という傲慢な言葉を投げられる。
 それゆえに完全無欠に少女的で、男への媚のかおりのしない「ロリータ」は精神的にわたしに似合う、だそうです。

 「わたしは自分が可愛いと信じている」「わたしは振袖やロリータが似合うに決まっている」、すがすがしい。好き。プライドの高いほうが好きという彼女こそ高貴なる御方でしょう。

 ちなみにぼくは男性なので読んでて傷つくし、川野さんは恋愛欲求も性欲もないし男性側への知的配慮はあれど共感はないので(持てるわけない)、男性が当たり前にもっている気質へグサグサナイフを突き立てます。しかし、本質的なことをいっているともいえるでしょう。
 昔吉行淳之介の文学に女性の愛読者が増えたことを「女が吉行文学を読むのは、吉行のもつ銃の先に花として括られるようなもの。いつ撃たれるかわからない」と表現したひとがいましたが(吉行淳之介はプレイボーイの女性嫌悪作家としてよく語られます)、川野さんのエッセイを男性が読むのはそれとは比較にならないくらい痛い。易々と燦燦たる刃で刺されるようなものでしょう。

 ちなみに好き好きいいましたが、魂というか芯というか背骨が好きなだけです。もちろん「Lilith」という第一歌集を偏愛しているというのが第一です。
 二階堂奥歯という編集者の思考や美意識にぼくは憧れているのだけれども、どちらかが好きな方は、もう一方も好きだと思う。水沢なおとシモーヌ・ヴェイユをこれに足せば大方わたしです。

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 ブックオフでは江國香織の「すみれの花の砂糖づけ」、マルキ・ド・サド(ぼくは作家名に貴族の称号であるドを付けるのがあんまり好きじゃないのだけれど、サドは似合う)の「新ジェスティー」、あと掘り出し物でジイドの「ユリアンの旅」を購入しました。

 「すみれの花の砂糖づけ」は一見日記みたいだけど、よくよく読むと平易なことばのなかに肉感が幽かにあるというか、それが世界という舞台で違和をともなって掠れているように想った。その掠れる音の綺麗なのはたしかに詩だとおもったけれど、小説のほうがいいと思った。
 精神病院に入院中は「きらきら光る」を読んで、すごく好きだったな~。主人公の女性がぼくとおなじで躁鬱ぎみ。

 サドはぼくの追究する主題を深めるために読まなきゃと思うんだけど、ちゃんと一冊を読めたことがない。おなじ感覚で、マンディアルグも面白くない。三島由紀夫みたいに象徴的な様式として読めばいいのだろうか。
 「O嬢の物語」を除いて、文学以外も含めてエロティシズムのコンテンツにあまり興味がわかない。性的な欲求が少ないのではなく、性的なものへの文化的・学問的な追求心がわかないのかもしれない。性はぼくにとってうす暗く後ろめたいもので、限られた状況下を除いて処理の対象でしかないような気がする。
 ちなみにぼくにとりO嬢の物語ほどにエロから遠い貞節的な物語はない。魂が肉が引き離されて往く物語だと想っている。

 ジイドは家に幾つかあるんだけど読んだことがありません。基本的に疾患の症状で文章が読めないので、どうしても読みたいものを優先してうんうんにらめっこする日々、こちらも後回しになるでしょう。はやく多読できるようになりたい。

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 電車で江國香織を読み、帰ったらすぐ寝て、いつもどおり0時すぎに起きて「かわいいピンクの竜になる」を読みました。
 躰へまとわせるすべての装飾を愛する方におすすめです。