清楚は無疵をいうんじゃない

なによりもまず詩人でありたい、だれよりも無名として書きたい。

男の子になりたかった女の子になりたかった女の子になりたい青津亮

 ※性被害についての記述があるのでお気を付けください。

男の子になりたかった女の子になりたかった女の子」という松田青子の著作のタイトルにインスパイヤされた川野芽生のエッセイを読んでいるのだけれども、それを読んでいる間ぼくの脳裏で、「青津亮とは男の子に憧れる女の子になりたかった女の子になりたいおじさんではないだろうか」というおそろしい不穏な影がよぎっていた。

 ぼくは概念的な意味での(架空の「少女性」という意味での)「少女」であろうとする若い女性になりきってよく一人称小説を書いている。この概念的な意味での「少女」については後述の抜粋で説明する。
 ぼくはなによりも先ず詩人でありたいので(小説しか書かなくなっても、先ず詩人としてあって詩人として生き抜くことができたらそれでいいという意味もある)、詩のほうが創作意欲はつよいのだが、小説を書きたいと思い立った時、半分以上は年齢的にも少女か、或いは大人になりきれず少女として社会人になってしまった女性を主人公とする小説を書いている。

 その少女たちを果してリアルな少女として描けているかどうか、女性でもないし少女を経験したこともないぼくには確認がとれない。
「ほんとうに青津さんって男性?」と訊かれるとめちゃくちゃうれしい。共感してもらえたらすごくうれしいし、最近は共感という人間の機能に懐疑的なムードだけれども、ぼくはすべてのひとに睡る普遍の人-性へ言葉のうでをのばしてくみとりたいので、他人同士だし性別も年齢もちがうのに「わたしみたいだった」といわれるとただただうれしい。

 それにしても、「少女性」というものは現実と対峙したときに蒼褪めて病んでいく宿命にあるようにぼくには想えてならない。「少女性」はけだしfictionであり、人工の産物であり、あたかも届かぬ月である。少女的に生きるとは月影としてのわが身を守護するという淋しいものであるけれど、その月は無いのだ。

 ぼくの考える少女の概念とは以下のようなものだ。


 そう。「概念」の意味における少女、わたしいわく「概念少女」とは、劇しく炎ゆる激情と蒼ざめた憂鬱を抱えこみ、その混濁の挙句、何らかのものを紫の曳く閃光と貫き破壊せんとする危険な存在。して、パブロ・ピカソがそういったように、産まれもっての芸術家である筈だ。裏切らない。わたしの本能からをも堕ちた領域にある本性のわたし、魂の睡る領域、いわく、「わたし」をけっして裏切らない。その貞節をさえ守護すれば、わたしたちはみな芸術家であり、その決意とうごきとを殺さないかぎり、少女は「少女」として、勁くつよくなりえるのである。果てに素直な心情に従って、澄む光のいきれを毀せるようになるならば、はや、詩人的といってもいいかもしれない。
 ところで、「少女」なる言葉を解体し、幻想・理想をモデルに縫い合わせ再構築して、さればそれ、虚数として追究してみよう。何故虚数といえるというに、それ実在しない概念であるが確かに宿ると信じられるにあたいすると判断されることにくわえて、聖性という、赫う城へ到達するという不可能への推論を投げるために目的のための道具として必要とする、天上に浮ぶ金属質の豊穣かな砂漠ともいうべく概念であるから。そして、虚数は実在しない。しかし、在る。不在として、たしかに、在る。
 扨て、「少女」とはその前提として、高貴性というものを必要とする。異論に関心はない。しかしその高貴性というのは身分や社会的価値等外部から与えられたそれでなく、ただ産れもったそれを守り抜こうと、心身ともにズタズタになっている状態をいう。純粋さを守護し、汚れつづけるそれを瑕に磨いていく狂おしい勇敢なうごきをしつづけられている、これが、概念的な意味での「少女」の条件である。「少女」の魂から高貴が香気と昇るのは、もしそのひとが「少女」であるならば、屹度それ本能的に識っているであろう。湧きあがる無辜の激情は、他者の善を信じ抜きたいという甘ったれたそれであり、ごくごく自然に、愛という不可解きわまる狂気的な言説に美しい夢をもつ。恋愛と愛を亮(はっきり)と区別することを全身全霊で拒み、愛を実現し立証する恋愛の他いっさいの恋愛をそれと認めず、その余りを軽蔑、そして唾棄さえする──ここに、「少女」特有の冷酷・残酷がみいだしえる。「ほんとうに大切なことは目にみえない」、当然きわまるものとして、「少女」の魂はそれをすっと心の根から理解する。Primitive──わたしたちは、そうでありたいのです。其処まで底まで根まで墜落、「我」を匿名と久遠の林立する「わたし」へと、一途に堕として往きたいのです。紗の音を立て、砂と抛り、希みをいだき、真直ぐに墜落して往く所存である。
 このうごき、このうごきに血とともにかよう光と音楽の共同舞踏、それ果たして、高貴でなくてなんであろうか? 有機に宿りえる高貴とは、優しさに出発した勇気のうごき、そこより薫る鮮血と純化された体液の深紅な香気をいうのである。少女とは、わが魂を天上のうつしみとして翳とわが胸に抱き、けがれることを怖れ、そうして、既にしてけがれた部分をどこまでも嫌悪する。剥ぎ落そう、剥ぎ落そうと四苦八苦する。純粋。優しさ。頸さ。闘い。素直に生きて、優しくて、愛らしい戦士に、たとえば、魔法少女のようなものになってみたいのです。そのためであるならば、何処までも、どこまでも戦い抜くのがわたしたちだ。

 自作から抜粋

slib.net



 それは地上においては生存を妨げ傷を負いやすくする影反映するうすらいでしかなく、その肉の下で傷を負う姿は、たといコンテンツ上であってもロリータ・コンプレックスの男性の欲情の餌食として使用される(ぼくの小説がそうでないといいきる自信はぼくにない)。
 無き少女性を守り抜くために現実と争い瑕に魂を磨くという生き方は不毛だ、惨めだ、清らかですらない、たかが人間なのだから。けれども──なぜぼくをこんなにも惹きつけるのだろう。

 恥ずかしげもなくいわせていただこう──ぼくは、少女的でありたい。
 しかしこの「少女」は、ぜったいに秩序によって与えられた「少女とはこうであれ」に与しない。フリルの裾をひるがえし、「わたしは是認しない」という水晶の眸を、みじろぎもしない光としてぼく等に叩きつける。

 考えるということは、ノンということだ。

 男の子に憧れる女の子というのは淋しい。彼女たちは男の子の気質や躰に憧れているのではなく、きっと少女とはこうであれという生き方を生きたくないのだろう。
 そんなことをするくらいなら痛みを感じつづけることを選ぶし、病んだっていい。そういった人間は秩序にとって余計者であるけれども、どこか可憐であり、しかし、哀れみというとろむ憐憫をそそぐことをためらわせる非情な冷たさ、硬さがある。ぼくはこの冷然硬質をむしろ趣味的に愛する。

 ぼくの憧れている二階堂奥歯という編集者の創作に(「八本脚の蝶」より)、「誇り高い王女は国を占領されたために性奴隷として使用されることになりましたが、王国が無いのなら自分を王国にしようと考え、躰を大理石のように硬めました。男たちは王女に侵入することができず、その王国はいつまでも地下にありつづけるのでした」というのがあるのだけれども(要約失礼)、ぼくはこの寓話が好きで好きでたまらず、しかし抱き締めたいという愛着ではなしに、月に憧れるようにこうでありたかったと悲願する。
 ギリシャ神話の推しは、アルテミスです。男に裸をみられて殺す銀色の冷酷さが好き。
 霊肉装飾ふくめて、自分を、王国にする。
 このようにぼくは生きたいのだ。本気で、そう想っている。少女的にして、Dandyでありたい。

 綴ってきたものは男性目線でしかない。そうだろう。
 少女とぼくの相違点というか、ぼくには「自分は性欲をもよおさせる存在である」という感覚がない。危機感をもったことがないため、小説でそういう心情を書くのも気が引ける。単純に肉体的なモテ方をした経験が乏しいし、そういえば性被害を受けたことはあるのだけれども、殆ど被害だと想っていない。心の状態がなにも変わらなかった(或いはすでに変わっていたのか)。
 性被害というのは、激しいものだと小さい時に毛むくじゃらの肥った男に手をひかれ、かるく躰をまさくられ、そのまま連れ去られそうになったことがある。
 母親が気づいて半狂乱で走ってきて男は逃げたが、そのままだとどうなっていたのだろう。あまり感慨はない。トラウマでもない。むしろ「ぼくも可愛かったんだな」と自慢のようにいうときがある。
 小中は大人しかったからか、意味がわかっていないのが理解されていたからか、同級生からやたら躰や下腹部を触られていた。軽いノリだと認識していたのだが、いま想い返すと血走った目が完全に欲情のそれであったが、「変わった眼付をするなあ」と想っていた。その触り方は嫌がっても嫌がっても触りつづける執拗さがあった。そういう同級生が三人くらいいた。
 十九のときに交際したひととはキスをしないまま別れたため、ファーストキスは二十歳の時に知らない女性から急にされたものである。無感覚は痛かったが、けれどもそこまでトラウマになったりはしていない。何度もしてきたので自暴自棄になって、快楽をえるまでやってみようかと実験的精神が働き何度もした。ゴムのようだと想った。
 当然のことだけれども、やはりぼくは女性の気持なんてわかるわけがないのだ。

 男の子に憧れる女の子になりたかった女の子になりたい。
 ぼくの小説には明らかに男性嫌悪がみられる。正直、「愚か」か「加害者」の二択である。ぼくがこのむのは明らかに「愚かな男」という軽蔑すべき側であり、またそれであるからこそぼくにこのまれる。男性性の愚かさ、淋しさを抱きすくめていたい。男性というのは秩序からはみだす凹凸のつよい特性や欲望をもちすぎている、かなしい生き物だと思っている。だからこそ泥臭く生き抜いた社会不適合な中原中也のような男が好きだ。坂口安吾のような男が好きだ。少年のようだ。
 少年性という存在をやはりぼくは愛しているが、ロックスターに憧れる少年の気持と大方かわりはない。
 結局、ぼくは少年のような男が一番好き。