清楚は無疵をいうんじゃない

なによりもまず詩人でありたい、だれよりも無名として書きたい。

推し美術館にふたたび訪れました

 福岡市美術館というところは、大濠公園という、湖のあるおおきな公園のなかにあります。

 ぼくは中原中也の詩によって、湖へのつよい愛着をもってしまいましたが、中也の詩編にえがかれているような仄かな暗みのある自然の風景とちがい、洗練された公園から眺める湖の周囲は都会的です。それもまたよし。(携帯電話がないので写真がない)

 福岡市美術館の入り口付近には、ぼくの好きなネモフィラが咲いていました。季節ですもんね。ぼくは春生れなので春がキライなのですが、ネモフィラの咲く5月に生れたことはいくぶんぼくに誕生日への愛着を与えています。
 ネモフィラはとても綺麗でした。夕暮にあんなにも沈鬱にみえる神秘の青は、朝陽の下ではきよらかな爽やかさをもってふわりと控えめに美を薫らせるようです。ネモフィラの美しさは香水でたとえるとオー・デ・コロン。
 あまりつよくなく、曳くように薫ればすっと糸を引くように掻き消えるような果敢なさがあるよう。しかしその後歩きはじめてふとしたときに、心象でかの風景が掲示されるような、また見に行ってしまうような美しさです。そうじゃありませんか?(わああああ写真撮りたかったよー!!!)

 大濠公園では湖を眺めながら、喫煙所でぼーっと喫煙、かわいい鳥たちににっこり。そして散歩中のわんちゃんを観察。動物だいすき~。
 とくに、哺乳類はほんとうに愛らしいですね。ここメモしてくださいね、哺乳類でいちばん愚かなのは、人間です(そして坂口安吾のいうとおり、切なくて美しいのも、人間にとってはやっぱり人間なんだよ)。

 推し美術館では、恒例の常設展示のみ鑑賞。
 特別展示には見向きもしませんでした。でもかっこいい都会的なイラストのポスターでしたね。
 今回は、前回ご紹介した川口規外の絵画ではなく、カプーアの「虚ろなる母」をご紹介いたします。

www.fukuoka-art-museum.jp
 虚無と母の結びつきは、ぼくの詩の主題と親和性がありそうです。絶対的な母は虚しく、吸われるように美しい沈鬱な青をしている。
 しかしぼくにとり虚無の母というものは生命を撥ねかえします。それは無機的であり、爬虫類の眸のような硬質な石です。それは天空です。天空とは硝子盤であり、硝子盤とは天空であり、これは両極端な世界であり、そしてぼくにとり双頭の神なのです。

slib.net


 帰りに、ずっと迷っていた美しいブルーの砂時計を買いました。福岡市美術館限定のデザインです。砂時計なんて必要ないので無駄遣いかと思い迷っていましたが、いつか売り切れるものだろうから...。ブログで買い物の話をすると、大好きな奥歯さんを意識しちゃいますね。

危険な愛読書に、よく似合う色彩です。

 

 話変わりますが、髪切っちゃいました。衝動的でした。
 70sのふわふわミディアム is dead...
 いまはいまで気に入っています。前から見たら銀行員みたいな真面目なセンター分けで、横から見たらがっつりブロック入れていて、ギャップが好き。3ミリの刈り上げを守るためにバリカンを買い、週1で刈り上げています。


 ふわふわミディアムより、グランジやストリートのファッションには合いますね。でもたぶんもとに戻します。

 あ!あと、勢いで美術館でガチャガチャしちゃったんですよ!何年ぶりかな、ガチャガチャ。
 パブロ・ピカソの絵画の缶バッチのガチャガチャで、落書きっぽいのだと服につけられていいかな~と思いやってみると、素敵な缶バッチがころり♪(全部素敵だったんですけどね)。

お気に入りのネルシャツにつけて、グランジ&パンク&ピカソ


 優しい顔をしています。
 理論を突き抜けた、天衣無縫。
 合理によって合理を砕いた不合理は、素朴素直な優しい顔をしているとぼくは信じています。人間の素朴なこころは優しい歌をうたうのだと、そう信じています。
 "primitive"とは、天衣無縫とかさなる織物です。ぼくは、其処まで、還りたい。

 幼少期に、ふしぎな優しい物語を読んだ時の、かのとくべつな感情をお憶えでしょうか。あたかもひとの善にもたれかかるように優しい心を信じる甘えと、神秘への尊敬が、番うような心のうごき。かのような感情は、やはり、喪失してしまいます。
 パブロ・ピカソは急進的な芸術家でもありますが、その領域に魂を置きつづけ、時代と現実の波に抵抗するように、佇んでもいたんだとおもいます。三島由紀夫金閣寺にある、金閣寺の頂点の鷲の彫刻のように。
 それは、もしや、無垢への意志です。